フクロウ博士の森の教室「からだを復元させる医療の話」

第2回 記憶のヒミツ 富山大学大学院 医学薬学研究部(医学) 井ノ口馨教授インタビュー 記憶の分子メカニズムの探究を通して、「人間とは何か」に迫る

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井ノ口馨(いのくち・かおる)
1979年名古屋大学農学部卒。84年同大学大学院農学研究科博士課程修了。農学博士。85年三菱化学生命科学研究所副主任研究員。91年米国コロンビア大学医学部研究員、ハワード・ヒューズ医学研究所 リサーチアソシエイト、ニューヨーク州立精神医学研究所研究員。帰国後、三菱化学生命科学研究所主任研究員、横浜国立大学客員教授、三菱化学生命科学研究所グループディレクターを経て、2009年より現職。著書に『脳神経生物学』(共著)、『記憶をコントロールする』」『記憶をあやつる』など。

高校生の頃、「人間とは何だろう」と疑問に思った井ノ口先生は、哲学書を読み漁ったが答えは見つからなかった。そこで生命とは何かを探ろうと分子生物学を専攻。その後一冊の本との出会いによって、分子レベルで脳の機能を明らかにしたいと脳科学者へと方向転換する。現在は、分子生物学・生化学から電気生理学・光遺伝学・行動薬理学といった幅広いアプローチによって、記憶形成メカニズムの謎の解明に挑んでいる。

人生を変えた一冊の本との出会い

───井ノ口先生が生命科学の研究者になろうと考えたのは、どんな理由からですか。

高校生のころは「人間とは何だろう」「自分とは何者か」などという根源的な問いを心に抱き、ショーペンハウエル、ニーチェ、カント、ハイデッガーなどドイツの哲学書を読み漁っていました。けれども、いくら哲学書を読んでも答えは出てこないのです。
そこで、哲学ではなく自然科学のアプローチで「人間とは何か」という問いを明らかにしたいと考えるようになりました。けれど、その当時はまだ脳科学という言葉もない時代でした。たしか大脳生理学という言葉はあったような気がしますが、そのレベルも今とは比較にならないほどのもので、私の問いに答えが出せそうにありません。そこで、問いを「生命とは何か」に変えたのです。
こうして専攻したのが名古屋大学の農芸化学でした。

───名古屋大学を選んだのはなぜですか。

名古屋大学は、権威主義的なところがなく、若くて自由な雰囲気があったのが魅力的でした。農芸化学では発酵化学、細菌学、醸造学などで大腸菌を扱うのです。私は、生命とは何かを理解するためには、生命を人工的に創り出すことができなければならないと考えました。そこで、単細胞で生命としては単純な大腸菌を研究のターゲットに選び、大腸菌の遺伝子制御や、大腸菌の細胞膜を人工的に創る研究に取り組みました。博士課程では、細胞の中身であるDNAやタンパク質に目を向け、遺伝子からの転写や翻訳によってタンパク質ができるメカニズムを研究し博士号を取ったのです。
その後、三菱化学生命科学研究所に入って、大腸菌から酵母へと研究対象を変えて4年ぐらい研究を続けていたのですが、1989年に日本橋の書店で日本の記憶研究の第一人者であった塚原仲晃先生の『脳の可塑性と記憶』という本に出会いました。人生を変える本との出会いなどそうそうあることではありませんが、その本との出会いが私の人生を決定づけたのです。

───いったいどのような内容だったのですか。

私は先ほどお話ししたように、脳研究をやってみたいとずっと思っていたのですが、分子生物学から見ると、当時脳は複雑すぎて遠い存在だったのです。ところが、その本を読んで、脳の中でも記憶というのは近い将来に分子生物学の研究対象になるだろうと思いました。
本編でも話しましたが、記憶には「短期記憶」と「長期記憶」があり、長期記憶はどうも遺伝子がオンになりやすいというようなことが、その本には書いてありました。遺伝子のオン、オフなどは分子生物学者である私には自家薬篭中の話なので、長期記憶が形成されるときにどんな遺伝子がオンになるのかを見つけることなら自分にできると考えたのです。

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